一羽のカワウが公園の沼にある浮きの上にとまっていて、風向きに合わせて身体の向きをクルクルと変えながら(風見鶏のように)、広げた羽を乾かしていた。2日前に来たときも一羽だけで、この一羽だけがこの公園の沼をテリトリーにしながらエサを獲っているのかもしれないし、2日前と今日のカワウは違うカワウでそれを同じカワウだと思っているだけなのかもしれない。羽を広げて上を向いた姿勢のカワウは思ったよりも大きくてしばらく見入ってしまった。昨日読み終わった「旅する練習」のなかでカワウが羽を乾かす描写があって、その描写から想像していた姿と目の前の姿を見比べて、そのズレのなかで目の前のカワウを見ていて、カワウがカワウ以上の広がりを持っているように感じたけど、やっぱりカワウはただのカワウとして目の前で羽を乾かしていた。「旅する練習」のなかに登場する少女が、魚を捕るためだけに生きているようなカワウの姿を見て「魚を獲るために生まれたみたいでかっこいいじゃん」と思いながら、人間(自分)もそういう生き方が出来るだろうかと憧れを抱いていたその感じを(あるいは、それを読みながら自分が感じていた事を)、これからカワウを見る度に思い出すのかもしれないと思った。
2023.05.04
仙台はかなり暑くて、駅前を歩いているだけでうっすらと汗が滲み出てきた。彼女と石巻へ行くために特急の電車にのり、コンビニで買った缶ビールを一本だけ飲んだ。少し眠くなってきて目を瞑っていると、横切っていく電柱や電線の影が窓から入り込んで、光と影が交互に瞼の上を通過していくのを感じて、目を瞑ったとしても何も見えていない(感じていない)訳ではないよなと思いながら、「眼の誕生」という本のなかで書かれていた皮膚の光感受性のある斑点が像を結ぶ眼へと進化していく話を思い出して、像を結ぶ以前の原始的な眼で世界を見たらこんな感じなのだろうかとぼんやりとした頭で想像した。石巻につくと気温がぐっと下がり、仙台に比べるとかなり肌寒かった。
2023.05.03
次の日はゆっくり起きようと思っていても、必ず6時に一度目が覚めてしまって、そこからは寝ているのか目覚めているのか分からない時間が続く。8時にベットから起き上がって洗面所で歯を磨いた。カーテンと窓を開けて空気を入れ替えた。燃えるゴミとビンとカンを収集所に持っていって、使ったままになっていた食器を洗った。10時頃にジョイフルに行って、モーニングメニューのトーストセットを頼んで、途中まで読んでいた「旅する練習」の続きを読み始めた。
2023.05.02
溜まっていた洗濯物を洗って、コインランドリーに乾燥機をかけに行く。コインランドリーのベンチで保坂和志のカフカ式練習帳をパラパラと読む。断片的なテキストが連続していて待ち時間に読むのには丁度いい。2,3年前に買ったはずだがまだ半分も読めていない。
2023.05.01
お昼にどうしてもハンバーガーが食べたかったので、グーグルマップで現在地から12分歩いた場所にあったマックでダブルチーズバーガー(ピクルス多め)のセットを注文して近くの公園で食べた。適当なベンチに座って食べていたが、風が強くて持ち帰り用のビニール袋が何度か飛ばされそうになった。彼女がハンバーグを食べたいと言っていたのでスーパーでひき肉とセージを買って帰り夕飯の支度をした。夕食後、仕事の疲れが抜けずそのまま力尽きてすぐに寝てしまった。
2023.04.30
7時起床。コンビニに行くために外に出ると小雨が降っていた。食パンと卵とソーセージを買って朝食の用意をして珈琲を入れた。石巻に用事があったので15時頃に家を出て仙台駅に向かった。駅には帰省してきた人と帰省しに行く人たちが交差していて少しだけ混雑していた。石巻行きの快速は案外空いていた。夕方、薄く張った雲で夕日が拡散されて街全体が薄いピンク色になっていた。用事を済ませて仙台に戻り、仙山線に乗り換えて最寄りの駅まで向かった。駐輪場に止めていた自転車に乗って帰っていると、カーテンを全開にしている家があって一瞬だけ居間の中が見えた。帰省してきた雰囲気の家族が座卓を囲んでテレビを見ながら夕飯後の時間(多分だけど)を過ごしていて、一瞬見えたその光景に、「見たことがあるな」という感覚を覚えた。デジャブとは違う感覚で、似たような感覚として思い出すのは、行ったことのない地域のバイパス沿いの風景や郊外の住宅地を歩いているときに抱く「見たことがあるな」というものがあって、そこに広がる風景が似ているというのもあるけど、細部は違っていて、でも似ているという認識の振動のなかで生まれている感覚だと思う。故郷を感じる瞬間と見たことがあるという感覚が重なり合っている。田んぼ、畑、ショッピングモール、バイパス沿いに並ぶ家電量販店、ファミレス、本屋、眼鏡屋、そういったものに囲まれて育った人には共通しているものなのかはわからないが、故郷といえる場所や風景がないわけではなくて、「見たことがある」という捉えどころのない感覚と故郷の風景が重なりあっていることが厄介なのかもしれない。
2023.04.29
快晴。4月から作り始めた庭が今日で完成した。個人宅の庭を作ることも減ってきているらしく、こうやって庭を最初から最後まで作ることができたのは凄くよかったのだと思う。庭の作り方を直接教わったわけではないけど見ていて思ったのは、まず四隅をどうするかを決めないといけないという事で、石を立てるのか、植木を植えるのか、フェンスで囲うのか、正面はどちらか、とか色々な条件の中で四隅を決める必要がある。たいていの庭は区切られた空間の中で作られる。空間をどう区切るのか、区切り(空間の境目)をどう視覚化するのか(あるいは隠すのか)が大切になってくる。次に動線を考える必要がある。日本庭園は鑑賞用として作られる事が多くて、その空間の中を直接移動することは少ないけど(だから視線の移動よって空間をどう運動させるのかを考える必要がある)、西洋風の庭はガーデニングをしたり、ベンチをおいてそこで休憩したり、庭の空間に直接入っていくことや、手を加えることが多いので、空間の中をどう移動させるのかを考える必要があって、これはインスタレーションというか展示空間をどう構成するのかを考えているときに近い。最後に全体としての印象を見る必要がある。木の向きや傾き一つとってもだいぶ印象は変わってくるし、張られた人工芝の色が濃いのか薄いのかだけでも違いが出てくる。これは臨機応変に対応していく。創作をしていることの良さはどんな経験(記憶)でも資本に出来ることで、この経験によって確実に展示構成とか、創作自体が影響されていくと思う。余談だけど、庭を作るときにかなりの量の砂(山砂や川砂)を使う。新築の現場ならもっと砂(砂利やセメントも)を使うのだろうけど、日々こんなに大量の砂が何処かから掘りだされて循環していることを普通に生活していたら気がつかなかっただろうなと思った。人はかなりの量の砂を日々移動させてる。
2023.04.28
撮られた写真の背後に「個人の生」を読み解き(それ込みで撮影して)、それを作品の意味へと解釈しなおすのが「私写真」なのだとして、ただ撮られた写真とは何が違うのか、なぜ私写真と名指す必要があるのか。そうすることによって写真にどんな効果を持たせようとしているのか。という問のようなものがぱっと思いつく。
人が持つ情報量の多さ。
ただ撮られた写真は「個人の生」のような含みを持たないのか。
写真にジャンルはあるのか。山岳写真というジャンルがあるとしたら、それは写真の分類ではなくて、撮られた対象の分類、情報であって、写真そのものを分類しているわけではない。写真そのものは分類できない。技法や対象によって分類していて、小説なら、推理小説、SF、私小説、etc…があるがけど、どれも小説の題材や技法的な分類で小説そのものを分類しているわけではない。それぞれのジャンルがあると言われればあるし、ただはっきりと線引きされているわけではないし、ジャンルという意識を持たずに小説を書くことができるように、写真も撮ることができる。じゃあ分類する意味がどこにあるのかといえば、それは作る側というよりは見る側の意識に影響していて、情報として受け取るときの方向性としてジャンルがあることによって情報処理が楽になる。
2023.04.27
雨の次の日が晴れていると光が透きとおっていてなんでも写真に撮れるという気持ちになる。今日がそういう日だった。何でも撮れるというのは、文字通り写真として何でも撮れるということで、どんな些細なことや、取るに足らない事でも写真にできる。それはデジカメ(スマホ)のシャッターを押せば写真が撮れるというのとは違う意味で、写真が上手くなるといのは、どんな場所でも(どんな対象でも)撮れるということなんだと思うし、ばえるばえないの外で撮れるということでもある。なんでも写真として撮れるというのがスタートラインで、その地点から何を写し撮るのかを考える(選んでいく)必要があって、それは大変なことでもあると同時に日々の中に表現が滑り込んでくることでもあり、楽しいことでもある。難しいのは上手くなればいいということでもないことで、写真を見たときに「上手い写真」という印象が最初に来るのであれば、それは撮られたものよりも撮ったか側の技術が全面に出てきているということで、「写真上手いですね(技術的に)」は褒め言葉ではない(個人的には)。問題は技術的に上手くならないと、(あるいは技術を引いていく方向じゃないと)次のステップにいけないことだと思う。
写真を写真として見ることは難しいことで、何処で作ったか(撮ったか)とか、誰が作ったか(撮ったか)とか、そういうことを込みで見てしまう。同じ内容なのに誰が発言したのかで判断に違いが出てきてしまうのもそのせいで、目の前にあるものや言われていることを文字通りに受け止めるのは、文字通りに受け止めるためのタフさが必要になる。それを誰が(どこで)作ったのかを含めて見ることを完全に無効にすることは難しいし、それが作品の固有性を作っている側面もある。その固有性と固有性を解除した状態を行ったり来たりすることが重要なんだと思う。
AIが恋人(大切な人)の人格や仕草を完璧に再現できたとして、恋人だと思い込んだ後にAIだったと告げられたとき、その再現された人格を恋人だと思い続けられるのか。東浩紀がこういったAIにまつわる問題を結婚詐欺に例えていて、婚約者だと思っていた人が実は結婚詐欺師だとわかったとき、その人を婚約者だと思い続けることは(その人に一緒に居てくれてありがとうというような感謝の念を抱いたりすることは)難しいのではないかと言っていて、これはAIが作者のタッチを完璧に再現して、かつ新しい作品を制作したとして、その作品をその再現された作者の作品だと思えるのかという話にも繋がってくる。おそらくAIが作ったと知った途端にそれを作者の新作とは思えなくなる。(それ自体をコンセプトにした作品はあり得るかもしれないがそれはまた別の話だと思う)。作品の背後にある作家性や場所性は作品の固有性を保証するもので、その最小単位が「誰が(どこで)つくったのか」なんだと思う。これが最大になると作家性だけが独り歩きするし、最小になればその作品の固有性(本物である感じ)がなくなってしまう。リサーチをベースに制作される作品は「どこで」をリサーチ対象から調達していて、地方の芸術祭でリサーチベースの作品が多いのは、それがいちばん効率よく作品の固有性を調達できるからだと思う。そう考えればその場所に固有な自然環境や歴史に重点が置かれるのは自然な流れなんだと思う。難しいのはその場所で生きている大半の人にとって、その場所で生きているという実感は、そういったあえてリサーチ対象になるような場所にはなないということで、リサーチや制作がうまく行っていないと「ここで」作られたことの必然性が感じられなくなってしまうことだと思う。それなら無理にその土地に文脈をつけずに作品が作品として存在していた方が清々しいしと思うし、鑑賞者に新しい出会いを与えてくれると思う。個人的な欲望としては、鑑賞によってその場所から消えていくという欲望があって、これはさっきまで書いていた制作(鑑賞)の方向性とは違ってくるし、固有性の発揮のされ方(あるいは固有性に寄りかからずに制作する方向性なのかもしれない)も違ってくると思う。
2023.04.26
日記を書いていると、ただその日があったということ(と記憶)がストックされていく。そのストックが何かの役に立つわけではないが、ストックされていくという事実が大事で、ただ今日が終わってしまうのとは違う。日記を書くコツがあるとすれば、毎日書くことで、そのことが一番続けることのハードルを下げてくれる。あとはそれぞれのモチベーションをどこからか調達すればいい。特に取り上げる必要のない、逆に言えば今まで書かれることのなかった(その人が今日を生きていなければ書かれることのなかった)出来事や場面が書かれているものや日記として書かれなければ忘れられていたようなものを読むと日記としての面白さを感じる。「書いた人」と「その日」があったことの確かな実感を与えてくれる。そういう日記を出来るだけ書きたいど、書くべきことの外に出て、別の角度から1日のうちで書くべきネタを見つけるのはなかなか難しい。その日のネタさえ見つかれば日記は書ける。
ジャンルの外に出て、もう一度そのジャンルに戻ってくることが重要で、単純にメディアをミックスすればいいわけではないし、ジャンルの純粋さを追求すればいいわけでもない。